現代語訳ご遺文 大田殿女房御返事

大田殿女房御返事(おおたどのにょうぼうごへんじ)

八か月分のご供養米として一石送って頂いたが、たしかに受領した。

ところで即身成仏(そくしんじょうぶつ)という法門については、諸大乗経とならびに大日経等の経文に明白に出ている。しかしながらこうした経典を依り所にした人々の即身成仏というのは、二つの増上慢(ぞうじょうまん)に落ち入ってしまい、成仏どころかかえって地獄に落ちてしまうのである。

妙楽大師の著した法華文句記の九巻にこの二種の増上慢について、「衆生が即身成仏した場合、仏と衆生は平等一如であるというと衆生は慢心が生まれて、修行をしなくなってしまうであろう。次に煩悩の多い衆生がそのまま仏となると聞くと、衆生は進んで善根を修し慢心を改めることをしなくなってしまうであろう。この二種の増上慢の者たちの間には深い浅いの違いがないわけではないが、二種ともに仏と衆生が一つであると思い込んでしまっている点では同様であり、少しも反省しようとしない大変な恥さらしの人人である」とある。

諸大乗経で説く、煩悩の身に即して菩提を成することが出来るという法門や、生死変化の身に即して不変である涅槃の即身成仏を得ることが出来るという法門は、とても勝れて尊いようであるが、これは本当の即身成仏の法門ではない。

それは声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)の二乗(にじょう)の人たちを励ますために、諸経でわざと本当ではない即身成仏の法門を説いたのである。すなわち二乗というのは鹿野苑という所で、最初の説法たる小乗の教え阿含経を聞き、見惑と思惑の二種の煩悩を断破したが、まだ塵沙と無明という根本の煩悩を断破していないのに、我はすでに全ての煩悩を断じ尽くしてしまって、最高の涅槃に入り身を焼いて灰となし智恵をほろぼし、もって悟りの境地に入った者となった、と思い込んでしまっているようなものである。

身体を灰にするというのであるから生きた身体そのものではない。また智慧を滅するというのであるから成仏ということもできない。凡夫には煩悩も業もあって、いろいろな行為の結果から生じた苦しみの結果たる現在の自分が存在しているのである。したがって煩悩やさまざまな業を種子として報身や応身の仏となることもできるであろう。

また苦の果である生死があれば、生死即涅槃(しょうじそくねはん)といって法身如来にもなることができるのであると説いて、灰身滅智(けしんめっち)に安住しようとしたことを注意し、さらにその上の即身成仏へ進むように二乗を激励したのである。だからといって煩悩と業因と苦しみの現在の身が、そのまま仏の三身(法身・報身・応身)の種子とはならない。

しかし法華経では有余(不完全な涅槃)と無余(完全な涅槃)の境地に達したという二乗について、煩悩や業や苦をとり出して、仏は「その煩悩・業・苦の身が、そのまま仏に成る」と説かれたのである。ここに初めて二乗の真の成仏が認められたのみならず、凡夫も同時に即身成仏することができるようになったのである。

この二乗を激励するために諸経でも即身成仏ということが説かれているのであるという法門が、よく理解されているならば、華厳宗や真言宗の人々がいう即身成仏とは、依り所とする経文に文字として即身成仏とあっても、その本当の教義はないのである。諸宗の間違った考え事が起きてきたのはここに原因があったのである。

弘法・慈覚・智証といった人々はこの法門に迷ってしまったと見える。ましてやそれ以下の古い先師先徳といわれる人々は言うまでもなかろう。

ただし天台宗の第四十六代目の座主をつとめた東陽の忠尋という人は、右のように法華経以外の即身成仏について、すこし疑問を持っていたようであるが、しかし天台座主という立場で慈覚の末葉をつぐ身の上なので、心では思いつつもうわべは知らぬふりをしてすごしてしまわれたようである。そのうえ日本に生まれた者は、弘法・慈覚.智証の法門があまりにも広く信仰されていたので、どうしても心の中では思いついても、口に出して言い出すことはできなかったのである。

しかしながら、釈迦・多宝それに十方の諸仏や、地涌の菩薩・竜樹菩薩.天台.妙楽.伝教の各大師らは、即身成仏は法華経に限るとお考えになっておられたのである。我が弟子らはこの事をよく考えて覚えておくことが大切である。

妙法蓮華経の五字の中には、諸論師や諸人師の解釈はまちまちであるけれども、皆諸経の立場で解釈したものであり、正当なものは一つもない。ただし竜樹菩薩の大智度論の中に、抄の一字を次の通り解釈している。「たとえば大薬師が、よく毒をもって薬としたようなものである」とあるが、これはまさに妙の一字をよく心得た解釈であると見ることができる。

この毒というのは、苦諦と集諦のことであり、生死の因果は毒の中の毒である。この毒を生死即涅槃と言い、また煩悩即菩提と言い表わしたので、毒を変じて良薬としたことになるから、これを妙の一字の究極の法門と言うことができるのである。良薬というのはこのように毒を変化させて、薬にすることを良薬というのである。

この竜樹菩薩の書いた大智度論の百の巻に、「華厳経や般若経等は妙ではない。法華経こそ妙である」と解釈している。この大智度論を羅什三蔵という人が中国へ伝えた。天台大師がこの法門をご覧になり、南三北七の諸人師の説を攻めて破折されたのであった。

それなのに中国の唐の時代中頃に、日本では弘仁以後の人々の間で、この即身成仏について間違った考え方が生起してきたのである。ことの起こりは中国唐の第九代目・代宗皇帝の時代に、不空三蔵という人がインドから中国へ伝えた書物があった。それを菩提心論という、この書物は竜樹の論であると称した。この論の中に「ただ真言の法の中だけにのみ即身成仏ができる法がある。ゆえにこれを三摩地(さんまじ)の法と説く。諸経の中にはこのことは欠けていて書かれていない」という文章がある。この解釈にだまされて弘法・慈覚・智証等の人々の法門は、さんざんの目にあいひどいものとなってしまったのである。

ただし大智度論は竜樹の著作したものであることは、だれも争うことのないもので、真作に間違いはないが、菩提心論のほうは竜樹の著作であるという説のほかに、不空の著作であるとする説もあり論争が起きているが、これはもっとも無理のないことである。だがこの点についてはさて置くことにしよう。

ただし不思議に思うことは、大智度論の文意によれば即身成仏は法華経に限ることになる。文の証拠も道理のうえからも全くはっきりしているのに、菩提心論のほうはたとえ竜樹の作としても、なぜ大智度論の論旨にそむいて、真言の即身成仏を立てたのであろうか。そのうえさらに「ただ真言の法のみ」といっている「ただ」の一字は強い意味を持っていると考えられる。いったいどの経文を依り所にして「ただ」の一字を書き、法華経を破折したのであろうか。経文の証拠をはっきりさせるべきである。

竜樹菩薩の十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)の中に「経文に根拠を求めていない勝手な法門は邪論である」とあるので、竜樹が自らの論述にたいして反するような矛盾した論を書くようなことはしないはずである。大智度論の百巻には「法華経に於て、諸経で成仏することができないとされて灰身滅智を目標としていた阿羅漢たち(二乗)が、みごとに成仏することが認められたということは、たとえると大薬師がよく毒をもって薬に変えたようなものである」と解釈しているが、この解釈こそ即身成仏の道理を本当に書いたものである。

ただし菩提心論と大智度論とは同じ竜樹菩薩の書かれたものとなっているが、即身成仏について水と火のごとく違ったことを言っているので、どのように理解したらよいかと思うが、この点については著者の竜樹の異説ではなく、訳した人に原因があるのである。

というのは大智度論を訳した羅什の舌は火葬にした時に焼けなかったが、これはうそを言わなかった証拠である。ところが菩提心論を訳した不空の舌は焼けてしまった。いつわりを語った人の舌は焼け、真実を語った人の舌は焼けなかったのであり、この事ははっきりしているのである。

インドから中国へ仏教の経典を伝えた人は、百七十六人いたが、その中の一人であった羅什だけが、教主釈尊の経文に自分個人の考えや言葉を入れずに訳した人であった。百七十五人の中で羅什の前後に出た百六十四人は、羅什の優れた智恵によって知識を得ることができたのである。

また羅什が来たお陰で百六十四人の間違った解釈も正しくすることができ、新訳の十一人も誤りをただすことができたのである。またこれらの人々がそれ以後、訳経するうえで上手になったのも羅什のお陰であった。これは私が一人で勝手に言っているのではない。

感通伝(かんつうでん)という書物の中に「前代を光り照らし、後代にも絶えて二度と現われない立派な人である」と羅什のことを記している。前代を光り照らすというのは後漢から後秦までの訳者のことを指し、後代にも絶えてというのは羅什以後のことを指しているのである。善無畏も金剛智も不空らも、みた羅什の智慧を受けて、少しは上手に訳すことができるようになったのである。

さらに感通伝によると、「羅什以後の諸人は、みな羅什の影響によるものである」とある通りである。したがってこの菩提心論の「ただ真言のみ即身成仏する」といった「ただ」の文字は、たとえ竜樹の論であるとしても、不空が自分で述べた言葉である。ましてやその次に「諸経の中においては即身成仏は欠けていて書かれていない」と記されているが、これは全くのあやまりである。

即身成仏の手本である法華経をさしおいて、実際にはありえない真言に即身成仏を立て、そのうえさらに「ただ」の一字を付け加えた不空は、天下第一の誤った見方をしたものである。これはひとえに正しい道をふみはずした修羅の根性での法門である。

天台大師の法華文句の第九巻に、寿量品の心を解釈して「仏は過去・現在・未来の三世にわたって、いつも法身・報身・応身の三身を備えているが、諸教の中では秘してかくし、まだ説いていない」と書かれている。これこそが即身成仏の明文である。

それなのに、不空三蔵はこの解釈を消すため、竜樹が言ったこととして、「ただ真言の法の中にのみ即身成仏することができるのであり、それゆえに三摩地の法を説くのであって、これは諸教の中においてはいまだ説かれていない」と書いたのである。

したがって次に即身成仏できると書かれているが、まことの即身成仏ではない。生身得忍(しょうしんとくにん)といって、一見、即身成仏と似たような境地になることはあっても、本当の即身成仏とは全く違ったものである。不空三蔵は「即身成仏は尊く有難い法門である」といっているが、即身成仏の真の義理をよく知らない人である。本当の即身成仏の法門は、なんといっても二乗作仏(にじょうさぶつ)と久遠実成(くおんじつじょう)を説き示された法華経によらなくてはならないことである。

天台大師のいわれたように、即身成仏については、「法華経以外の諸教では、かくして伝えていない」とあるのは、まこと栴檀の香が、他の雑香をしりぞけて、本当の良い香りを放つように、即身成仏について真の法門を示したものといえる。恐れながら申し上げる。

仏教以外の教典たる儒教では、三千余巻にのぼる書物の中で、「政治のやり方を間違えると世の中は濁り乱れてしまう」と説き明かしている。また仏教の五千ないし七千余巻に及ぶ経典の中には、仏法の浅深をわきまえずして、権教方便の教えに従うことにより、世代は濁り乱れることになると明らかにしている。

今の世を見るのに、仏教以外の諸教にも相違しており、仏教自身についても違反しているためであろうか、二つの大きな災難が一つの国である日本に生起している。その一つは北条幕府の内乱であり、もう一つは外国から攻められることであり、それにより国は亡び去ってしまうのではなかろうか。まことに可愛想なことである。

七月二日

日蓮花押

大田殿女房御返事

 

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